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高蔵寺の歴史

謎多き古刹

承応三年(1654)創建、海誉阿闍梨が第一世住職です。近年まで高蔵寺の創建について、「都窪郡誌」「中洲町誌」「倉敷市誌」などでは、いずれも不詳とされてきました。しかし、最近になって発見された古文書によってその創建があきらかにされました。
 
その古文書には、高蔵寺のある中島地区は今から約390年前に、当時の中大道城主だった建部民部慰政喜によって干拓され、その後、中島地区への入植者が年を追う毎に増加していき、寺院が必要となってきたため、中島地区の東端に高蔵寺が建立されたと記されています。干拓事業が終了した頃に第42番実際寺が建立されてから38年後のことです。初代住職の海誉阿闍梨は、元禄二年(1689)に入寂しました。
 
また、高蔵寺ゆかりの名僧として寂賢和尚がいます。寂賢和尚は、11歳の時、高蔵寺の寂意和尚によって落飾。高野山にも登り研鑽を積みました。そして明治の初期には、仏教が衰微したのを愁い各地を説教して回ったと云われています。明治六年(1873)に入寂。名僧の誉れ高く、中島上町に供養塔が残っています。
 
中島地区の西側には高梁川が流れ、東側にはその支流である足守川が流れています。干拓時代から、まだ水害対策が充分でなかった昭和の初めまで、大雨が降ると死者を出す程の大洪水がしばしば起こっていました。高蔵寺には、この水害時の浸水の水位を示す跡が遺されています。旧客殿の鴨居の漆喰の約2メートルの高さの所に横に水平な線が入っていて、上と下とで少し色が変わっています。上は白いままですが、下は浸水してきた水のため少し茶色に変色しています。新客殿になったその一部を同じ高さに移植し、当時の様子を今に伝えています。