真言宗のお寺には日々たくさんの祈願(お願いごと)がきます。交通安全、合格祈願、無事成長、病気平癒、良縁成就……など、さまざまです。
僧侶は願主(お願いをする人)と神仏を繋ぎ、加持(かじ=より善きあるべき方向に導く)という祈祷によって祈願を成就させます。それにはもちろん手応えも存在しますし、成就しない原因も見えてきます。
先日、おもしろい事例がありました。同時期に2人の方から同じ内容の祈願がありました。2人は性別、年格好は同じでしたが、お住まいや生活環境はまったく異なりました。
そして私は同じ期間しっかり祈願しました。Aさんは「祈願の料金はいくらですか? いつぐらいに願いは叶いますか? それは実感できますか?」とせっかちに訊いてこられました。Bさんは「ありがとうございます。私自身はどのように日々祈ればよろしいでしょうか?」と訊いてこられました。
私は「すでに成就しています。どうぞ、しっかり感受(受け止めて)ください。御礼に関しては、ご本尊に対してですのでお気持ちでけっこうです」と丁寧にお答えしました。
数週間経ち、Aさんは不服そうに「実感が得られない。本当に効いているのか?」と催促してきました。Bさんは「何か変わりつつあります。引き続きお願いいたします」と手を合わせました。私は2人に同じ対応をして、成就に役立ちそうな資料と書籍を2人に授けました。
後日、Bさんが興奮気味にお礼参りに上がられました。「先日、授かったお札の前で祈ったあと、頂いた書籍をパラパラとめくりましたら、私の悩みについての詳細がありました。何気なしに読んでみたら、そこに大きなヒントが載っていました。慌てて、日常にその方法を取り入れたら、昨日スッと成就したのです!」とご報告してくれました。
その後、Aさんから電話がありました。「せっかくお願いしましたが、あのお寺では何の功徳も得られない。他の方法を考えたい……」と。
私は残念な気持ちにはなりませんでしたが、ふと「近道と遠回り」って何だろう? と考えました。人は目標に向かってまっすぐ進みたがります。しかし生きていると、ピンボールの台のようにたくさんの釘にぶつかります。そう、思うようには進まないのです。ぶつかって、弾かれて、引っかかりながらゴール(成就)をめざしているのです。
ここに登場したAさんとBさんの差は各々が感じることだと思います。ただ1つ言えることは、祈祷で直接的に功徳を得るのではなく、素直な心で共に精進を重ねていくと『わらしべ長者』のごとく、些細な事が大きな徳分に変化して、結果的に気づかぬくらいのスケールで功徳の中に生かされている。それに気づけるかどうかは本人次第……成就の条件はその辺りにヒントがあるような気がします。