法話な日記

Bykozoji

2016/10/17『御仏に向けて』

当寺の秋大祭『施薬祭(せやくさい)』まで一週間をきりました。準備も大詰めといったところです。もともと、新客殿落慶を記念して「威光倍増(いこうばいそう=神仏の功徳がいつまでも続き、ますます大きく増えますように)」を願って始まったお祭りです。今年でもう11回を数えます。

当初はあれもこれも、住職である私自身が走り回って準備をしてきましたが、近年は誰に何を言わなくても、開催が近づいてくると、各方面から信者さんが集い、それぞれの持ち場をそれぞれのペースで作務(清掃)してくださり、どんどん捗ってお互いの負担はずいぶん軽減されています。

信仰とは「モノの向きを整える」ことだと思います。モノとは「何に向いて手を合わせるのか?」という部分です。よく、住職やお寺の者に対して苦言をする人がいますが、その口々には「アナタ(住職やお寺)のためを思って申している」というニュアンスが出てきます。でもそれを「ご本尊のために」「我が先祖のために」と矛先を変えてみると、それはずいぶん意味が変わってくるのです。

私が過去に修行した道場で一番凄いと感じたことは「作務したい気持ちにさせる」ことをモットーにしていることでした。誰ともいわず、スッとしゃがんで雑草を抜く。常に箒の掃き音がしている。香炉がいつみても真っ新である。そうせずにはいられない空間……。

「あそこが汚い」「あれが乱れている」「あっちのゴミを拾うべきだ」……そんな声の前に自身の手が出ること、それを「精進」と呼ぶのでしょう。気づいたら、自身が動けば良いのです。精進の場こそが神仏を祀る境内なのですから。これが理解出来ると喜捨の真意も見えてきます。

まだまだ住職として至らぬところはたくさんありますが、この時期になると、それぞれが「ご本尊に奉納」という気持ちをもって、自主的にご奉仕くださることは何よりも誇らしいことです。

ぜひ次の日曜日は高蔵寺へお参りください。

Bykozoji

2016/10/16『成就の条件』

真言宗のお寺には日々たくさんの祈願(お願いごと)がきます。交通安全、合格祈願、無事成長、病気平癒、良縁成就……など、さまざまです。

僧侶は願主(お願いをする人)と神仏を繋ぎ、加持(かじ=より善きあるべき方向に導く)という祈祷によって祈願を成就させます。それにはもちろん手応えも存在しますし、成就しない原因も見えてきます。

先日、おもしろい事例がありました。同時期に2人の方から同じ内容の祈願がありました。2人は性別、年格好は同じでしたが、お住まいや生活環境はまったく異なりました。

そして私は同じ期間しっかり祈願しました。Aさんは「祈願の料金はいくらですか? いつぐらいに願いは叶いますか? それは実感できますか?」とせっかちに訊いてこられました。Bさんは「ありがとうございます。私自身はどのように日々祈ればよろしいでしょうか?」と訊いてこられました。

私は「すでに成就しています。どうぞ、しっかり感受(受け止めて)ください。御礼に関しては、ご本尊に対してですのでお気持ちでけっこうです」と丁寧にお答えしました。

数週間経ち、Aさんは不服そうに「実感が得られない。本当に効いているのか?」と催促してきました。Bさんは「何か変わりつつあります。引き続きお願いいたします」と手を合わせました。私は2人に同じ対応をして、成就に役立ちそうな資料と書籍を2人に授けました。

後日、Bさんが興奮気味にお礼参りに上がられました。「先日、授かったお札の前で祈ったあと、頂いた書籍をパラパラとめくりましたら、私の悩みについての詳細がありました。何気なしに読んでみたら、そこに大きなヒントが載っていました。慌てて、日常にその方法を取り入れたら、昨日スッと成就したのです!」とご報告してくれました。

その後、Aさんから電話がありました。「せっかくお願いしましたが、あのお寺では何の功徳も得られない。他の方法を考えたい……」と。

私は残念な気持ちにはなりませんでしたが、ふと「近道と遠回り」って何だろう? と考えました。人は目標に向かってまっすぐ進みたがります。しかし生きていると、ピンボールの台のようにたくさんの釘にぶつかります。そう、思うようには進まないのです。ぶつかって、弾かれて、引っかかりながらゴール(成就)をめざしているのです。

ここに登場したAさんとBさんの差は各々が感じることだと思います。ただ1つ言えることは、祈祷で直接的に功徳を得るのではなく、素直な心で共に精進を重ねていくと『わらしべ長者』のごとく、些細な事が大きな徳分に変化して、結果的に気づかぬくらいのスケールで功徳の中に生かされている。それに気づけるかどうかは本人次第……成就の条件はその辺りにヒントがあるような気がします。