法話な日記

Bykozoji

2018/01/31『祈願の所在』

祈願について、ときどき「なぜ祈願には名前と生年月日、それに数え年と住所が必要なのですか?」という質問を頂きます。その人からしてみれば、加持祈祷に「なぜ、そのような俗的なデータが役に立つの?」という気持ちがあるのかもしれません。また「もしそれが間違っていたならどうなるの?」というような勘ぐりもあるのでしょうか。

 

私もそのへんの解釈は曖昧で、詳しい願主の略歴や病気の症状を渡されてもピンとこない時もありますし、雑談でうかがった空耳程度の願事がポンと成就することだってあるんです。ただ、若き頃に師匠に訊ねたことがあって、その答えは「例えば一つの大きな作業を成すとき、たくさんの職人を集めたとしよう。お前はそこの最高責任者で、こと細かく作業指示を出す立場である。そんなとき漠然と名前を知らずに人を動かそうとすると混乱が生じる。 『○○さん、この作業をしっかりとお願いします』、『□□君、あそこは丁寧に頼んだぞ』というように責任の所在をしっかり示せば各々の動きは活発となる。祈願においても同じだよ」と。

 

そこには親しさや重要性も加味されますから、お顔を見ただけで、お声を聞いただけで「この人」だと確定できる付き合いもあれば、まったく存じない人もいるわけで、そういった日常の付き合いのごとく、祈りの世界にも「所在を明らかにして認知する」ことが重要なのだと思います。

 

余談ですが、ずいぶん前のことです。行者として駆け出しの私は毎日お堂にこもって祈願をしていました。まだまだ願主は少なかった。それでも一人で責任を感じて懸命に祈る日々を送っていました。ある日のこと、有名な菓子会社の方から「おかげさまで危機を脱することが出来ました。夢にそちらの名前が現れたんです。そのあと奇跡が起こりました!」と電話があったのです。受話器の向こうはすごく興奮気味でした。私は戸惑いながらも「はあ、はあ……」と気のない返事をしながら頭の中で心当たりを探りました。でもぜんぜん思い出せず、心当たりも見つかりませんでした。

 

翌朝、お堂に座って「アッ!」と声を挙げてしまいました。仏前に上がったお供え物の段ボール箱にその会社名があったのです。冗談みたいな話ですが心当たりはそれしかありませんでした。毎日祈願する中で、その箱が無意識に目に入り、知らぬうちに一緒に拝んでいたのでしょう。そんな経験から「願主の所在」は重要だと私は信じています。

Bykozoji

2018/01/30『知ったからには……』

この28日から3日まで、星供養という「延命」のみを祈祷する時期に入っています。密教独自の祈願で、世間でいう「節分」の原点はここにあります。
 
昨日のことです。母とちょっとしたやりとりがありました。
 
母「○○さん、お店を休むみたい」
私「ふーん」
母「病気の治療みたい」
私「ふーん」
母「早く良くなってほしい」
私「だーね」
 
ここで私は母に苦言をしました。行で忙しそうに見える私に気を遣ってのことでしょうが、そんなに遠回しに言う必要はなく、治癒を祈って欲しいのならメモ用紙に「氏名」「生年月日」「住所」「症状」を記しておいてくれればいい……と。母や家族に頼まれれば、当の本人やご家族が知らないところで私は陰ながら拝む。そこにあちらからのお布施やお供え、感謝なんて求めない。もちろん「拝んでいます」という口外すら禁じます。そこにあるのは、いつも家族がお世話になっているという感謝、そして悲しんで欲しくないという想いのみです。
 
真言宗の修法を繰り返していますと、ミクロとマクロの視点が交互に出てきます。わかりやすくいえば、細胞と全身、個人と団体、砂一粒と宇宙……といった風に段階によって様々なピントを巧みに使い分けて、気がつけば「あれもこれも」を高いレベルで拝む境地に入っているのです。
 
前記の「母とのやりとり」は一見、冷たく僧侶らしからぬ上から目線のやりとりだ! と受け止める人もいるかも知れません。しかし本気で望むなら気遣いなしに明確にその本意を伝えるべきであって、それとなしに語るだけならただの噂話にしかなりません。時間が永遠にあるならまだしも一刻を争うのですから。
 
現代は情報に溢れています。連日テレビやネットでは他人の不幸を野次馬に向けて大っぴらに垂れ流しています。そこに同調して成り下がるか、そのご苦労を知ってしまったのなら善転を祈るのか……そこに鬼と菩薩の差が生まれます。
 
「個」を拝むことは「全体」を拝むことです。「全体」を拝むことは「個」を拝むことです。そこのなんの区別もわだかまりも存在しません。日々、大いなる宇宙の調和を祈念しながら、他人の一大事を知ったからには陰ながら最善を祈る……それが行者の使命です。このスタンスこそ密教の究極、星供養のこの時期に学ぶべき真意だと私は思います。
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Bykozoji

2017/06/14『72兆個の染みわたる』

弘法大師・空海さまがおっしゃるには、私たちの身体は72兆個の蟲(細胞)から出来ています。高野山の修行では以下の偈文を毎食前に唱えます。
 
【蟲食偈】
我身中有八万戸
(わたしの身体の中には、八万の家があり)
一一各有九億蟲
(その一つ一つに九億の細胞がいる )
済彼身命受信施
(今、彼らの活躍を願い、この食事を施しとする)
 我成佛時先度汝
(自身が仏に成るには、まず細胞たちを成仏に導くことである)
 
現代科学では60兆個だといわれる細胞の数ですが、1200年前に空海さまのおっしゃった数のほうが上というは驚きです。このために大自然に御身と投じて、じっくりお時間をかけてご修行なされたのでしょうね。
 
健康とはその72兆個が「善意」をもち、それぞれがそれぞれの役割をストレスなく活動してくれることです。例えるなら、大型船である自身のクルーは72兆個の細胞であり、意識とか自我と呼ばれるものは「船長」でしかありません。その船長がやさぐれたり、自分本位に突っ走ってしまうと、当然、クルーは不満と不調を訴えてきます。
 
だから「死にたい」なんて口にするもんじゃありません。いや、想うことすら72兆個のクルーに悪影響を及ぼします。もっといえばお互いが争うことや、卑下しあることもクルーにとっては辛く悲しいことなのです。
 
ある大病を患われた男性が「死ぬほどの痛みと苦しみに耐えかねて病院のベッドの上で死のうと思って泣いていた。しかし医者や看護師の献身的な治療、親族の懸命な看護、そして放っておいてもヒゲも髪も爪まで伸びる。死のうと思っているのは自我のワガママであって、命は常に生きようとしてるのだと気付いたら元気が湧いてきた」とおっしゃっていましたが、正にその通りだと思います。
 
しっかりとした意識をもって「自虐は最低の行為だ」と肝に銘ずるべきです。日本人が使う「五臓六腑に染みわたる」という表現はまんざらでもなく、72兆個に染みわたらせる意識で生きていきましょう。
Bykozoji

2017/06/09『センスがないわけがない』

今年の1月から月に1度、名古屋に通って「みほとけ画講座」の講師を勤めました。この講座は私の描く「ほほえみほと」の技法を伝授するエキスパートコースです。全24回、約2年間に講義、実践、試練を繰り返す「みほとけ画家」を目指します。
 
その様子は4つに分かれ、「如来クラス」「菩薩クラス」「明部クラス」と「天部クラス」と順に(技術的には)ステップアップし、徐々に俗的なモノも尊く描くようになる珍しい講座です。もちゃん講座の中で真言密教のノウハウを学んで受けるように工夫されています。いわば、絵を方便とした初心行なわれた趣で修了すると雅号(法名)をお授けします。
 
昨日はその「如来クラス」の修了しましたがこれで学び、描いてきたことは集大成として、手本を離れて「清書」することが課題でした。門下生は緊張してもノノビビ傑作を描いててくれました。
 
総評の中で私は3つの極意を話しました。それはこれ以上これの上達を望むなら3の心得です。それは「欲望」と「負け気」、それを「センスを磨く」の3つ。ここでここそれは講座でも伝授なのですからもよくよかった読み返していると、いずれも「仏教らしからぬ」語句ばかりです。これぞ、密教!と面白い展開です。門下生たちも元はキョンとしていました。
 
センスがない……と嘆く人がいます。絵心がない……とぼやく人がいます。でも私は「ない」と言う表現に疑問を感じます。「文字心がない」は誰も言わない。それは字は誰にでも書けると認識があるからです。でも、字も元々は象形、絵から成り立ったものです。
 
「ない」という表現は間違いです。「絵心ない」のはではなく、絵を描き上げる心がない、絵を描こうとする気持ちがない、それだけのことです。ならば、センスはどうでしょう?センスの意味をすししべべみみとと「物事の微妙な感じをさとる心の動き、微妙な感覚」と出てきます。センスがない……なんていう前に磨く意識をもらないだけのこと。自分ではいけないセンスでどんどん輝きたいもの…宝はないのではなく、持ち腐れて磨きが足りない。センははんどん磨きましょう。
Byyomairi

2017/05/31『瞬発力のはなし』

祈願にはさまざまは状況に合わせた方法が存在します。空海さまから伝わるいわゆる『伝・でん』というものです。高野山修行時代にはその方法をたくさん教わります。そのことを「お授け」と云います。お授けにもいろいろな方法があって、熱心に行者は出来るだけ多くの『伝』を授かろうとマジメに修行します。
 
これらを授かるには、それまでの正統な修行経験と師匠のご縁が重要となります。そして容易に他言してはなりません。その部分が密接、秘密(立場に合った伝授)ということで『密教』と呼ばれているのです。
 
さて、このことを自分に置き換えるとそのチャンスは他の行者より多くあったような気がします。長く高野山にいましたし、私の周囲は修行に熱心な諸先輩方が多かったので当然といえば当然のことなんですが。私はあまり器用はほうではありませんので、たくさんの法を授かるとパンクしてしまうタチで若いときはその部分でたいへん苦労しました。同門の仲間はきちんとノートに整理して、次々とお授けを受けていきましたが、私はさっぱりでした。
 
あれから30年経ちました。今でも困ったときに開くノートはありません。授かった法の種類も他と比べたら多くありません。たくさんのチャンスがあったのに……と、ものすごく後悔しています。
 
でも先日のことです。私に「あの法はどう拝めば良いのだろう?」と仲間から相談がありました。私はビックリしました。なぜならあれだけ真面目に学び、資料をまとめ、ノートにまとめていた人からの相談だったからです。コツがつかめない……彼は真剣でした。私は自分が観じたなりのコツを伝えました。すると瞬時に彼の顔は晴れやかになり「ありがとう、助かったわ!そこか、そこだったか……ぜんぜん気付かんかった!」と喜んでくれました。
 
私としてはそんなに大したことではなかったので逆に驚いてしまいました。彼は「俺は学ぶことに終始してメモで満足してきたんだけど、いざ修そうとするとサッパリ出来なくなっていた。お前は授かった(学んだ)ことをすぐに試して、1つのことを徹底的に実践してきたからスッと話せるんだよ。学生時代の優等生なんて経験を重ねたヤツには敵わない……。」とため息をつきました。
 
言われてみれば、そこだけが違う気がします。学ぶことを整理して「いつか使おう」と思う人と、忘れぬうちにどんどん「試してみよう」と思う者の差。素直さと好奇心で、語弊を怖れず言えば「バカになってやってみる」ことは身と心に刻まれます。「いつかやる」という気持ちを捨てて「すぐに」やる。アレンジを加えずひたすら反復する。「わかった」という結果を「出来た」に変える。要は実行力、瞬発力が大事だということです。ぜひ若い人にご指導する立場の方には、この辺りをしっかり説いて差し上げて欲しいと願います。