1週間の星供養が成満(じょうまん=無事無魔に成し遂げて最高の功徳を得ること)いたしました。ここで確信を持てたことを今後、当寺の縁日に少しずつ説いて参ります。要点は以下の如く。※なおメールなどでのお問い合わせには一切お答えいたしませんのであらかじめご了承ください。
1)今年は新しいチャレンジより、自分にとって一番スタンダードなことをもっと密に。
2)何事も完ぺきにサラリと行う。
3)見落としている自身の欠点を繰り返しの修練で見つけ出す。
4)慣れ親しんでいるモノを真逆から組み立ててみる。
5)偏見で絶望しない。最悪の事態を騒がれている中で光明を探す。
さて、今朝の法話です。行者の心得について少し考えてみましょう。
初心の行者は師匠の見様見真似で少しでも近づこうと精進します。それが師弟関係というものです。師匠を持たぬ者や、頼りない師の元で学んだ者は、新たに目指す人を見つけてその人に付いて修行をします。
この両者は一見同じようであって、実はまったく違う立ち位置です。弟子は師匠の「心を読むこと」に専念して成長します。師匠を持たず同行を極めようとする者は、師(本来の師匠ではない)から「技を盗むこと」に没頭します。本人にはそのつもりはなくても、その立ち振る舞いは最終的に大きく現れてきます。これはまるで卓上で2本の線を並行に描いたつもりでも、数㎜の誤差をどんどん延長し、数㎞先は驚くほどの差が開くが如くです。
これは残念ながら当の本人は気付きません。苦言すら槍や矛のように受け止めて牙をむいて反論します。でもそこで気付かないと一生間違ったことを身につけてしまいます。正式な弟子は「うちに成果」を求め、愚者は「外に結果」を求めます。コレをやった、アレができたと騒ぎます。こと、密教の世界では、目に見えないモノや信じがたい現象を『見えた!感じた!」と騒ぎ出します。
私たちは日常「邪魔」という言葉を用います。この言葉こそ修行における戒めの一語です。師の影踏まず……と申しますが、修行は陰徳と互いの「邪魔」であってはなりません。世の中でしくじっている者はすべて「邪魔」であるか否かという基準で成り立っています。根本をはき違えると覚者(悟りを開いた者)が遠のき、邪魔外道と成り下がるのです。その残酷さは、せっかく行を積んでいても起こりうるところです。
少し前に「KY=空気を読めない人」という言葉が流行りました。行者の先輩たちと「拝む世界はこれを露骨に笑えないね」と苦笑したことがあります。師の心を読めず、どんどん前に出てとんでもない空気の中で「悟った」と勘違いしてしまう。こんな残念なことはありません。いま歩んでいる道は前者か、後者か? この節分を機に再確認してみることをオススメします。
最近では瞑想やヨガ、座禅があちらこちらで学べるようになりました。高野山でも「観法(密教的メディテーション)を身近に」と一般の方でも「阿字観」などを教わることが出来ます。このようなことにチャレンジする人は普通とは違う境地を求めがちですから、感想をうかがうと「よくわからんかった」という答えはほとんどなく、それらしい感動を熱く語ってくださいます。でも私のような行者でさえ、いまだにピンとこないことがしばしばですから一朝一夕に極めることは難しいと思います。
「入我我入(にゅうががにゅう)」とは自身の中に御仏を取り入れ、御仏の中に自身が入ることをいいます。呼吸を整えて、教則にしたがって時間をかけて段階にそって集中を高めます。これも一口に「出来た!」というものではなく、人にああだこうだと聞いて同調することでもありません。でもやってみたい……でもできない。このジレンマの中に溺れてしまう人も少なくありません。
日本には季節があります。勝手なもので夏には涼しく、冬には暖かく過ごしたいとぼやきます。でもこの季節の体感を素直に受け入れて観ずれば良いのです。御仏とは何か……それは「宇宙の摂理」です。宇宙といってしまうとスケールが大きすぎてトンチンカンになるので、ここでは「自然」に置き換えてみましょう。自然に自己を投じてみる。これが「入」ということです。常日頃、人としてワガママに生きている。大袈裟にいえば自然に刃向かって生きている。それだから心身のバランスを壊してストレスなどという亡霊に悩まされている。こう解釈するならば、それらをリセットするために上記の作業が必要だと理解出来ると思います。
この時期は簡単です。朝起きたら顔を洗ってしっかり口をゆすぎます。服装を暖かくして、とびっきり寒い部屋か窓を開けて外気と同じ温度の部屋に座ります。可能なら仏壇や祭壇があればベストですが、なければ灯明(キャンドルでも可)を点して、正座をして静かに見つめます。そこで大きく息を吸い、ハーッと静かに息を吐き出します。この時、なるべくゆっくり長く吐く意識をします。そしてまた大きく息を吸います。ここで普通のメディテーションなら「吐く息を意識する」と説きますが、まずは「吸う息」を感じます。観じるではなく感じるのです。体温で温まっている息が外に出て、冷えた自然の空気が体内を巡ります。これを繰り返していると徐々に外気と体内が同調してきます。そこから今度は吐く息を意識します。真冬ですから、当然のように白い吐息が出ます。その息を長く遠くへ低く小さな「アーーーー」という声(響き)に乗せて吐いていきます。慣れてきたら、白い息の粒子一粒一粒をしっかり見つめる意識を持ちます。文章だと長く思えますが、数分これを朝と夜、毎日続けてみる。このあとにキチンと勤行すればなおさらイキイキしてきます。
難しいことは考えず、身近にあるものを使ってしっかりと三密(行い、言葉、心持ち)を整える。山寺にこもったり、パワースポットに行かなくても、季節という最高の演出が御仏へと誘ってくれますよ。
祈願について、ときどき「なぜ祈願には名前と生年月日、それに数え年と住所が必要なのですか?」という質問を頂きます。その人からしてみれば、加持祈祷に「なぜ、そのような俗的なデータが役に立つの?」という気持ちがあるのかもしれません。また「もしそれが間違っていたならどうなるの?」というような勘ぐりもあるのでしょうか。
私もそのへんの解釈は曖昧で、詳しい願主の略歴や病気の症状を渡されてもピンとこない時もありますし、雑談でうかがった空耳程度の願事がポンと成就することだってあるんです。ただ、若き頃に師匠に訊ねたことがあって、その答えは「例えば一つの大きな作業を成すとき、たくさんの職人を集めたとしよう。お前はそこの最高責任者で、こと細かく作業指示を出す立場である。そんなとき漠然と名前を知らずに人を動かそうとすると混乱が生じる。 『○○さん、この作業をしっかりとお願いします』、『□□君、あそこは丁寧に頼んだぞ』というように責任の所在をしっかり示せば各々の動きは活発となる。祈願においても同じだよ」と。
そこには親しさや重要性も加味されますから、お顔を見ただけで、お声を聞いただけで「この人」だと確定できる付き合いもあれば、まったく存じない人もいるわけで、そういった日常の付き合いのごとく、祈りの世界にも「所在を明らかにして認知する」ことが重要なのだと思います。
余談ですが、ずいぶん前のことです。行者として駆け出しの私は毎日お堂にこもって祈願をしていました。まだまだ願主は少なかった。それでも一人で責任を感じて懸命に祈る日々を送っていました。ある日のこと、有名な菓子会社の方から「おかげさまで危機を脱することが出来ました。夢にそちらの名前が現れたんです。そのあと奇跡が起こりました!」と電話があったのです。受話器の向こうはすごく興奮気味でした。私は戸惑いながらも「はあ、はあ……」と気のない返事をしながら頭の中で心当たりを探りました。でもぜんぜん思い出せず、心当たりも見つかりませんでした。
翌朝、お堂に座って「アッ!」と声を挙げてしまいました。仏前に上がったお供え物の段ボール箱にその会社名があったのです。冗談みたいな話ですが心当たりはそれしかありませんでした。毎日祈願する中で、その箱が無意識に目に入り、知らぬうちに一緒に拝んでいたのでしょう。そんな経験から「願主の所在」は重要だと私は信じています。