棟梁のことば

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施薬殿落慶記念『小川三夫棟梁』講演

鵤工舎・小川三夫棟梁には施薬殿の建立に関わって頂き、平成17年10月25日高蔵寺境内において、落慶記念講演をお願いしました。その講演の中から印象に残ったお言葉を紹介します。

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三百年くらい先に笑われないような仕事を

━━━倉敷でこういう仕事ができることは嬉しいことですわな。

一番最初にきた時は前の客殿がありました。それを見ると本当に傷んでおりましたわな、修理するか取り壊して新築にするかという問題もあったような気がします。倉敷でこういう仕事ができることは、やはりあれですわな、こういう歴史的場所で建てられるってことは、嬉しいことですわな。今、栃木の工場、奈良の工場がありますけど、周りの人が「今、どこ行ってんの」って訊くから、倉敷で仕事してるって言うと「いいところでやってんな」って。やっぱり倉敷ってのは日本中から、倉敷っていうのはイイところだと…思うんでしょうなあ、皆さん。いいとこですよ、確かに。ホントにそういうところで仕事できるのは有難いことですなぁ。(中略)この客殿の使い方をどうするかを自分訊いておりましたから、だから寺子屋風な子供達が集まってくれるようなところ、そのような風に造ってあると思います。まぁ、この先出来上がれば判ると思いますけど、そんな想いで造ったような気がします。

━━━宮大工さんと普通の家を作る屋大工さんではどう違うんかということ。

講演なされる小川棟梁

講演なされる小川棟梁

よう聞かれることがありますけども、仕事は一緒ですよ。そんな難しいものを、屋大工さんも難しいことは難しい。しかしですね、自分たちは大きな木を扱います。大きな木を扱うという事は、その大きな木の癖が大きく出るという事ですね。小さな木を扱っていれば押さえ込むことは出来ますけども、大きな木は押さえ込むことは出来ない。ですから木の癖を汲まなくちゃなんないという事がひとつありますね。それと普通の家はですね、施主の考え方によって仕事は左右されますよね。自分がこうしたいといっても住む人の意に沿った仕事をしなくてはいけませんわな。自分たちはですね、こういう建物ですから、神仏の建物ですから何にも言いませんけども。しかしこれがやっぱしその何も言わないが、人々が頼り、いざとなって何かあった時に安心してここへ逃げ込めば大丈夫とかという、安心した建物を作る、心の拠り所を作るというのが自分たちの仕事でしょうな。

━━━道具は手の延長なんだ。

道具っていうものはですね、人間がものづくりするための手指の延長ですよね。手で指で叩いて穴が彫れるんであれば鑿(のみ)というものを持たなくてもいいわけです。鉋(かんな)、爪で木が削れるんであれば鉋を持たなくてもいいんですよ。でもそういうものを手では出来ないんで、そういう道具を持たなくちゃなんない、ね。しかし今の手道具というものを持たない、機械で釘を打つにしても機械に頼ってしまう。手の動きが失ったそういう職人からは、昔のような職人気質というものは生まれにくい時代ですね。

━━━時間をかけて手、身体に記憶させる。

今の世の中はですね、何事ですね急いでますな。早いっていう事が良いとしますね。しかし目と耳、目と耳で感じることは多少頭の中でですね、急いでもそれは対応できるんですよ。しかし手、体が覚えていくという事は対応出来るようになるまでには長い時間がかかるという事ですな。しかしこの差を同じと思って考える人がいますね。学校の先生なんか皆そうですわ。それが大きな間違いになるんですな。ですから簡単に職人は育ちません。時間をかけて手、体に記憶させていかなくちゃなんないんですな。ですから古代建築を造り守ってきた技はですね、文字や数字ではないんですよ。手、体の記憶が守ってきたんですね。その法隆寺がですね、文字や数字で受け継がれてきたのなら1300年の間に違う形になってしまうでしょうな。これが手、体の記憶であるから1300年前の姿が今に見られるんですよ。

━━━なぜキチッとした仕事をするか?

なぜキチッとした仕事をするか、ということは大体3百年くらいしたら、解体修理の時期が来ますよ、それは基礎が砂状になりますわな。一番最初に悪くなるのは基礎ですから。基礎が悪くなるから解体して、その時に平成の大工さんはどういう仕事をしたのかってのが見えるわけですわな。

300年くらい先に、その時に笑われないような仕事、自分自身に嘘偽りない仕事、ですからうちの弟子みんなそういう気持ちでいると思いますから、そんな自分が来なくちゃいけないってことはない、そういう気持ちでやってくれてると思います。何百年か先に解体した時に今は見えないんですけど、シクチっていって木と木の組み合わせがあるんですよ、そういうところを見られるのは解体した時、その時に判るわけですよ、どんだけの技術でやってるか、ですからこれを次解体する時に「あぁ凄いな」と判ってくれると思いますよ。

小川三夫棟梁 1947年栃木県生れ。1966年、栃木県立氏家高等学校卒業直後に西岡常一棟梁の門を叩くが断られる。飯山の仏壇屋、日御碕神社、酒垂神社で修業をした後、1969年に西岡棟梁の内弟子となる。法輪寺三重塔、薬師寺金堂、同西塔の再建に副棟梁として活躍。1977年、鵤工舎を設立。以後、国土安穏寺、国泰寺をはじめ全国各地の寺院の修理、改築、再建、新築の設計・施工・模型製作にあたる。