2018/05/15『見よう見まねの遺伝子』

Bykozoji

2018/05/15『見よう見まねの遺伝子』

親から子へ様々な「生命」のデータが継承されいることは「遺伝子」という言葉などで、一般の人々にも理解されるようになってきました。難しい話はさておき、日常でも「似てきたなぁ」とか「〇〇がソックリね」というやりとりは耳にしますし、こと法事の席ではそのような会話で微笑ましい場面をよく目にします。
 
法事というのは「亡き人を偲ぶ」行事です。参列者の中には、その人の生前の活躍を知らない人や子孫もいます。でもその人とのご縁があっての今であることは紛れもない事実です。
 
先日の法事である家に招かれた時のことです。亡き祖父を偲ぶ孫たちが「拝んだり、供養したりする以外で私たちに出来ることは何でしょうか?」と質問してきました。私は幸い、故人と親しかったのでいろんなことを拝みながら思い出しました。
 
当寺の花祭り、4月初旬になると必ずたくさんのパンジーを植えたプランターを持ってきてくれました。いつも「みんなの喜ぶ顔を想像して栽培していると作りすぎてしまう……」を笑顔で語ってくれたものです。私はそのことを孫たちに話しました。
 
その締めくくりに「同じ作業を見よう見まねでやってみると、その人の気持ちが蘇ってくるよ。お爺さんが何を想い、何を君たちに願っておられていたのか。季節の中でリズミカルに追体験するのも供養の一つじゃないかなぁ……実はね」と以下のように自分の体験談を法話として語りました。
 
私は近年、父を亡くしました。父はカメラマンで幼い私にも写真撮影についてはたいへん厳しかった。それは弟も同じでそのせいでカメラや写真のことが嫌いになりました。しかし亡くなってからカメラのファインダーを覗くと、私の撮影に対して口うるさく言っていた父の助言が蘇ってきて、それを修正することで「一人前の写真」が撮影できて驚きました。
 
これを単に記憶で片付けることは簡単ですが、そのとき私が感じたことは「自身の内面から蘇る何か」が存在したという感覚でした。それからというもの、出会う全ての人々の接し方が明らかに変わり「将来の糧」を意識するようになりました。