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Bykozoji

2018/01/30『知ったからには……』

この28日から3日まで、星供養という「延命」のみを祈祷する時期に入っています。密教独自の祈願で、世間でいう「節分」の原点はここにあります。
 
昨日のことです。母とちょっとしたやりとりがありました。
 
母「○○さん、お店を休むみたい」
私「ふーん」
母「病気の治療みたい」
私「ふーん」
母「早く良くなってほしい」
私「だーね」
 
ここで私は母に苦言をしました。行で忙しそうに見える私に気を遣ってのことでしょうが、そんなに遠回しに言う必要はなく、治癒を祈って欲しいのならメモ用紙に「氏名」「生年月日」「住所」「症状」を記しておいてくれればいい……と。母や家族に頼まれれば、当の本人やご家族が知らないところで私は陰ながら拝む。そこにあちらからのお布施やお供え、感謝なんて求めない。もちろん「拝んでいます」という口外すら禁じます。そこにあるのは、いつも家族がお世話になっているという感謝、そして悲しんで欲しくないという想いのみです。
 
真言宗の修法を繰り返していますと、ミクロとマクロの視点が交互に出てきます。わかりやすくいえば、細胞と全身、個人と団体、砂一粒と宇宙……といった風に段階によって様々なピントを巧みに使い分けて、気がつけば「あれもこれも」を高いレベルで拝む境地に入っているのです。
 
前記の「母とのやりとり」は一見、冷たく僧侶らしからぬ上から目線のやりとりだ! と受け止める人もいるかも知れません。しかし本気で望むなら気遣いなしに明確にその本意を伝えるべきであって、それとなしに語るだけならただの噂話にしかなりません。時間が永遠にあるならまだしも一刻を争うのですから。
 
現代は情報に溢れています。連日テレビやネットでは他人の不幸を野次馬に向けて大っぴらに垂れ流しています。そこに同調して成り下がるか、そのご苦労を知ってしまったのなら善転を祈るのか……そこに鬼と菩薩の差が生まれます。
 
「個」を拝むことは「全体」を拝むことです。「全体」を拝むことは「個」を拝むことです。そこのなんの区別もわだかまりも存在しません。日々、大いなる宇宙の調和を祈念しながら、他人の一大事を知ったからには陰ながら最善を祈る……それが行者の使命です。このスタンスこそ密教の究極、星供養のこの時期に学ぶべき真意だと私は思います。
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Bykozoji

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