Yearly Archives:2018

Bykozoji

◎土ほとけ講座in高蔵寺

高蔵寺住職・天野こうゆうによる『土ほとけ講座』です。

土ほとけとは、陶土で簡単に作れる仏さまのことで、当講座では法話を交えながら丁寧にご指導いたします。お子様のご参加も大歓迎です。

世界に一つ、自分だけの愛らしい仏さまを楽しく作りましょう!

・日時 6月3日(日)14:00〜16:00
・会場  高蔵寺客殿(イス席)
・会費  2,000円(材料費込)
・申込 お電話にて(086-465-2744)

※当日は各自、ハンドタオルと雑巾、エプロン、ナイロン袋(もしくはジップロック)をご持参ください。なお、会場は畳のお部屋ですが、イス席にて行います。

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2018/05/15『見よう見まねの遺伝子』

親から子へ様々な「生命」のデータが継承されいることは「遺伝子」という言葉などで、一般の人々にも理解されるようになってきました。難しい話はさておき、日常でも「似てきたなぁ」とか「〇〇がソックリね」というやりとりは耳にしますし、こと法事の席ではそのような会話で微笑ましい場面をよく目にします。
 
法事というのは「亡き人を偲ぶ」行事です。参列者の中には、その人の生前の活躍を知らない人や子孫もいます。でもその人とのご縁があっての今であることは紛れもない事実です。
 
先日の法事である家に招かれた時のことです。亡き祖父を偲ぶ孫たちが「拝んだり、供養したりする以外で私たちに出来ることは何でしょうか?」と質問してきました。私は幸い、故人と親しかったのでいろんなことを拝みながら思い出しました。
 
当寺の花祭り、4月初旬になると必ずたくさんのパンジーを植えたプランターを持ってきてくれました。いつも「みんなの喜ぶ顔を想像して栽培していると作りすぎてしまう……」を笑顔で語ってくれたものです。私はそのことを孫たちに話しました。
 
その締めくくりに「同じ作業を見よう見まねでやってみると、その人の気持ちが蘇ってくるよ。お爺さんが何を想い、何を君たちに願っておられていたのか。季節の中でリズミカルに追体験するのも供養の一つじゃないかなぁ……実はね」と以下のように自分の体験談を法話として語りました。
 
私は近年、父を亡くしました。父はカメラマンで幼い私にも写真撮影についてはたいへん厳しかった。それは弟も同じでそのせいでカメラや写真のことが嫌いになりました。しかし亡くなってからカメラのファインダーを覗くと、私の撮影に対して口うるさく言っていた父の助言が蘇ってきて、それを修正することで「一人前の写真」が撮影できて驚きました。
 
これを単に記憶で片付けることは簡単ですが、そのとき私が感じたことは「自身の内面から蘇る何か」が存在したという感覚でした。それからというもの、出会う全ての人々の接し方が明らかに変わり「将来の糧」を意識するようになりました。
Bykozoji

2018/05/14『クッキーのサイクル』

もうずいぶん前の話になりますが、8才くらいの女の子に「死んだらどうなるの?」と訊かれたことがあります。とっさのことでずいぶん慌てた記憶がありますが、そのとき「死んだ先のことはわからないけど、死んだ人を君がどう考えたら良いのか、その方法はわかるよ。」と答えました。
 
まず「大好きな食べ物は?」と訊いてみました。すると彼女は「〇〇クッキー!」と答えてくれました。次に「そのクッキーのこと考えるとどんな気持ちになる?」と訊きました。すると「美味しいことを思い出して食べたい!ってなる」と答えました。
 
では「クッキーを貰ったらどうする?」と訊きました。「すぐに食べる!」と嬉しそうでした。それから食べていると想像していろんな感想を訊きました。歯ごたえ、香り、甘さ、のどごし……丁寧に答えてくれて「だから大好き!」とまた言いました。
 
次に食べ終わった感想を訊きました。彼女はすこし寂しそうに「無くなっちゃった……また食べたいなぁ」と言いました。
 
食べたいと常に願って、それを手に入れたらワクワクして、それを食べたらやっぱり最高で、食べ終わったらしばらく感動に酔って、もうしばらくしたら少し寂しくなって、でも思い出したらまたニッコリして……また食べたいと願う。
 
クッキーでさえもこのサイクルで私たちは生きています。これを人に置き換えてみてください。会いたいと願って、出会えて、一緒の時間をたくさん共有して、別れた後も充実感に包まれる、しばらくしたら寂しくなって、思い出すたびにホッコリする。
 
その繰り返しで人は営みを続け、いつかは死んでしまいます。死別は悲しいことですが、このように考えてみると「今をどう生きて、あの人とどう接するべきか?」がボンヤリ見えてきませんか?難しい理屈や哲学じゃ、解決できないことも経験を思い起こすとふと気づけることがあるんです。密教ってそういう教えです。
 
Byyomairi

2018/05/13『名字と名前』

絶家(ぜっけ)などという言葉を耳にする昨今です。昔からある言葉なのに、今の使い方にはすこし違和感を覚える……お寺が関わる現場にはそういう言葉が増えてきました。家族葬、墓終い、別姓墓など……絶家もその1つだと私は思います。
 
止むを得ず、跡を継ぐ者がいなくなりその家、または一族が終わってしまう。ということは、その後はその血統を繋ぐことが出来ない。元々はそういった意味だったと思います。でも現代においては「跡を継ぐ(面倒をみる)者がいたとしても、私には関係ない」と言って、先祖の供養を止めてしまうことに使うのだそうです。誠に嘆かわしいことでございます。
 
人間にはおヘソがあります。それは母から親から、そして先祖からの繋がりの証しです。今ココに自分が在るのは過去の命が在ってこその「存在」です。お位牌やお墓は諸事情で祀ることは出来なくても「絶家します」などという言葉は口が裂けても発するべきことではありません。
 
先日、とあるご家庭にお参りしました。お爺ちゃんの7回忌でした。長らく空き家だった家をリフォームしてお孫さんが「今後、家徳を守る」ということになりました。そのお孫さんは30才手前の男性で、その家の長女であるお母さんに産まれました。お母さんは旦那さんの家に嫁ぎ、違う名字を名乗りました。その男性もその名字で生きてきました。その家には男の子が2人いましたので、一大決心をしてお母さんの旧姓、すなわちお爺ちゃんの名字を引き継ぐことにしました。
 
その報告も兼ねた法要でした。私はリフォームされた家の中を案内してもらい、昔の名残とこれからの生活を想像して嬉しい気持ちになりました。衣に着替え、袈裟を着けたとき、亡きお爺さんの笑顔がそのお孫さんの後ろに見えたような気がしました。
 
読経の前に「名字と名前」はなぜあるのか知っていますか? と彼に問いました。彼はキョトンと「……よくわかっていません」と照れくさそうに答えました。ならばと、私は「難しい言い方はいくらでもできるけどね……」となるべく平易に説くことにしました。
 
相手は若者ですから自動車に詳しそうでしたので「TOYOTAや日産、HONDAと聞いたらどんなイメージでしょう?」と問いました。すると「信頼のある日本車のイメージ。安全で性能も良くて……」と笑顔で答えてくれました。そして私は「名字って、それと同じだよ。」と続けました。
 
家の筋というのは一代で築けるものではなく、何代にも渡って善行を重ねて「信頼」を得てきました。善行を重ねるには一人だけの意識では続きません。「〇〇家はかくあるべき」と掲げて一念に築き上げたものなのです。わかりやすく言えば、先に挙げた社名と同じです。その社名(名字)の下で、さまざま車種(個人)が創意工夫を重ねて、万民のお役に立つ進化を続けているのです。[一例ですが]TOYOTAにはカローラという名車がありましたが、その性能と信頼、そして人気があったからこそ、世界中で愛されるプリウスが産まれたのです。
 
名字に固執して窮屈に生きることは望みませんが、一族一統の証しである「名字」について、少しだけこれからの若い世代にそれぞれの興味が湧く角度から、先人の功績を語ることで「先祖供養」の一助になるような気がします。ご参考までに。