法話な日記

Bykozoji

2017/02/04『御仏の豆まき』

ちょっとだけ「不思議な話」を綴ります。昨日の節分までの1週間、護摩法でこの1年の「息災延命」を祈りました。いつもよりはすこし強くアクセルを踏んだ感じです。
 
昨日の二十一座目の最終座、すこし面白いことが起きました。護摩には「五穀・ごこく」という供物を淨炎に投げ入れる作法が数回あるのですが、最後の最後に全てを投入して祈願し、次の作法に移った瞬間のことです。
 
バチ!バチ!ポン!ポン!と(なんだか昔話の擬音みたいですねw)窯の中が騒がしくなって、次の瞬間「痛っ!」と手や顔にチクチク痛みが走ったのです。夢中だったのにさすがに我に返り、よく見てみると五穀の中の大豆だけが窯の外、四方八方に飛び出て、その一部が我が身にも当たっていたのです。
 
そのバチ!バチ!ポン!ポン!はしばらく続きました。すべてを修め、座を改めて観察しますとキレイ(?)に大豆だけが散らかっていました。
 
そういえば、昨日は「節分」でした。節分といえば「豆まき」です。その豆は主に大豆が使われます。「魔の芽が出ぬように」と煎ってからまくのです。豆まきの由縁はさまざまありますが、ひょっとしたらこういう神変(じんぺん=念ずることによって起こる目の当たりに出来る結果)がいろんな伝わり方をして今に残っているのかもしれません。もちろん個人的な想像の域を抜け出すことはありませんが、仏さま(ここでは不動明王さま)が魔除けとして、私たちに代わって豆まきをしてくださったのかもなぁ……そう思うとなんだかホッコリした成就感に包まれたのでした。
Bykozoji

2017/02/03『真の行者』

節分に向けての『星供養』が佳境に入ってきました。毎日、いつもより強めにアクセルを踏んで護摩行を勤めています。

昨今、坊さんや寺制度、葬式仏教などをバッシングする流れがありますが、真言密教に関してはあくまでも「葬儀を待つ立場」ではなく、「葬儀がなきよう拝む(祈る)立場」を貫いています。その最たる修行期間が2月の節分を起点とする『星供養』に当たります。

宿命という言葉は一般的にも使われますが、私たちの命は大宇宙と繋がっています。その大宇宙の働きを「仏」と名付けて、命の連鎖が正しく好転し、全てが善くなるように進化することを祈ること……それが真言宗の「拝む」ということです。

星は常に法則にならって動いています。輝くときもあれば陰るときもあります。その星々と私たちのそれぞれの命は関係していて、その最も変化が生ずるこの時期に行者の加持(祈る力と天地万物のおかげを最大限に活用すること)で1年の延命を祈るのです。

豆まきも恵方巻きもそれに付随するアクションであって、その慣例で満足する者はそれで善しですが、根本の原理と功徳を知ったならやはり深き祈りは重要であると気づくことでしょう。

拝まぬ者、祈らぬ者、供養を求めぬ者は「知る、知らない」を別にして、弘法大師・空海さま曰く「痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。 (つうきょうはよわざるをわらい、 こくすいはかくしゃをあざける)」とおっしゃっています。あえて意味は記さずにおきますので、しっかり噛みしめてみてください。

さて、今朝の護摩行でふと「真の行者って?」という投げかけがありました。自問自答か、それとも御仏のお声か……そこはよくわかりませんが、そのことについて考えていると記憶がタイムスリップをして面白いことを思い出しました。

我が師匠、明治生まれの行者の言葉です。「戦時中、たいへんな物資難、食糧難であった。国が勝つことと、その日の空腹を満たすことを求めて日本人はのたうち回っていた。ワシはその状況が一刻もはやく改善されますように……と、行者として本堂で祈り続けた日々だった。」この言葉を聞いた私はまだ学生で「たいへんやったんやなぁ……」という程度の受け止め方をしました。

しかしよくよく噛みしめてみると、そんな折に「本堂で拝む」「(物資難に)供物を捧げて祈る」ということを周囲が許したのであろうか? そんなことをするヒマがあれば芋のひとつも育てよ! の時代だったのではなかろうか?

しばらく経って、そのことを師匠に問いました。すると「日々、拝んでいるからこその信用。信じ用いられることが『信用』。有事に『和尚が拝んでくれているから大丈夫じゃ』と思って頂けることが行者の真価じゃ。拝むしか出来んということは、これなら負けん、任せておけ、と言い切れる立場ってことじゃ。日々が大事よのう」という答えが返ってきました。

祈願でも葬儀でも慌てて、拝もうとするのではなく、日々どんなときも拝んでいるという信用があるからこそ「行者」なのでしょうね。

Bykozoji

2016/10/21『なめてかかる』

密教の立場から教えを説くと、どうしても「顕教・けんぎょう」との比較になってしまいます。読者の中には「どっちが立派なのか?」と問う人も出てきます。ここで申したいのは優劣ではなく、適宜その人にあったものを選択すれば良い。ここの法話はそのプレゼンだと思って読んで頂ければ幸いです。
 
昨日の話の補足をするとすれば、こういう例えも出来ます。子供のころを思い出して下さい。自分は小学校1年生くらい、近所のお兄ちゃんお姉ちゃんたちと野山で駆け回り遊んでいます。年長の子供たちについていこうと必死です。
 
目の前に川幅1メートルくらいの小川が現れました。お兄ちゃんたちは走る速度をあげ、ピョンピョンと川を飛び越えていきます。最後尾は自分です。果たして飛び越えることは出来たでしょうか。
 
ここで冷静に自身の体力、運動能力を分析すると「自信」はなくなります。「(ボクは幼いし)落ちるかも?」と頭をよぎるとかなりの確率で失敗してしまいます。逆に「お兄ちゃんたちについていきたい!」「同じように飛べば大丈夫!」「楽勝だよ!」と思い込めば、成功する確率は上がるのです。
 
今までにそんな経験は少なからずあったと思います。失敗と成功の狭間はそこなのです。汚い言い方をすれば、目の前に立ちはだかるモノに対して「なめてかかれ」ばいい。よく言えば「呑んでかかれ」ばいい。それだけのことです。
 
最初に「本来、仏(最高のエキスパート)である」と言い聞かせて体験してみる。挑戦する前にいろいろ考えすぎて身体を拘束せずに、勢いをつけて真似をしてみる。ここでのお兄ちゃんたちは「御仏」であり、それ弾みに弾みをつけてくれるのが「お坊さん=行者」です。密教を「体験仏教」と呼ぶ所以はそこにあるのです。昨日の登山の話にこれを加味して考えてもらえれば、今日からの挑戦にすこし弾みがつくかもしれません。ぜひ、萎縮なされず大いに「なめてかかって」みてください。
Bykozoji

2016/10/20『脱・人間だもの』

私は「人間だもの」というフレーズが苦手です。失敗を慰めたり、モノゴトをあきらめたりする時に使う言い訳のように聞こえちゃう。
 
ドウセワタシハ、ニンゲンダモノ。
 
「不器用なんです」「2つのことは出来ないんです」「コンプレックスがあるんです」どのセリフの陰にも「人間だもの」が潜んでるような気がしてなりません。そんなに卑下しなくてもいいのに……と思います。
 
真言密教では「即身成仏」を説きます。これが顕教と明らかに違うところです。密教では「仏である」から始まる。それに対し、顕教は「仏を目指す」。密教は、最初から仏として生まれてきたのだから、あの世の極楽を目指すのではなく、この世に極楽が在ることに気づきましょう……と説くのです。
 
順序を追ってモノゴトを知りたいって人には、破天荒極まりない発想に映るかも知れません。でもそのモノの順序さえ、未熟な者が決めたことなのだと理解すれば、その先は俄然楽しくなってきます。
 
これを「登山」に喩えてみましょう。顕教の登山(修行)は下からじっくり苦労して登ることを勧めます。初めはみんな初心者=凡夫という着想です。一方、密教はいきなり達人(エキスパート)であると説きます。達人(エキスパート)を「仏」を置き換えてみると理解しやすいかと思います。
 
顕教は「下から上を目指す=人が仏を目指す」、密教は「上に立っている自分に気づく=仏だった自分を思い出す」。要は密教では「出来ないから努力する」という次元ではなく、「出来て当たり前、本来の自分を取り戻す」という部分に重きを置いています。
 
登山の話に戻りますと、下から頂上を目指した際、八号目付近でものすごく苦しくなって「私、初心者なんだもの、頂上は無理かも……」とあきらめそうになる。中にはあきらめてしまう人もいるかもしれません。それならば一層のこと、ここで「私は元々エキスパートなんだ……だからぜったい登頂出来る!」と思い込んで挑んでみるとどうなるか。
 
ここの部分に、この世での成就の秘訣があるのです。もう廃版になってしまいましたが『弘法大師のおしえをどう生かすか〜真言密教の常識/田中千秋(元高野山大学教授)著/朱鷺書房』という名著があります。まだ古書屋では入手出来ると思います。もしお探しなら、ぜひ帯付きを探して下さい。「真言密教には凡夫が仏になるという考え方はない。仏が仏になるのである」と記されています。
 
これが密教の全て…ですね。空海さまを信仰するものは「人間だもの」というフレーズで妥協せず、「仏だもの」と奮起すべきなのです。
Bykozoji

2016/10/18『真心が形を呼ぶ』

近頃では自宅での法事が少なくなりました。ほとんど家庭がお寺や葬祭ホールを使います。どこで行おうと、軸がしっかりしていれば問題はありません。しかし「客」と感覚が少しずつ変わってきたように感じられます。
仏事での「客」とは、ご本尊、諸尊、神々、そして供養する魂(亡き方)をお迎えすることを指します。しかし人を大勢招く法事になると、この気持ちを忘れてしまい「客」は自分たちになっている場合が多いのです。自宅はともかく、葬祭ホールなどではサービス業として成り立っていますから、そつのない接待に施主さえが「客」となってしまい、本来を見失ってしまうケースが増えているのです。
先日、珍しく2つの法事がいずれも自宅で営まれました。1つめは若くして息子さんを失ったご家庭でした。奥様も病に伏し、ご主人が懸命に菩提を守っておられました。以前はずいぶん荒れた印象を受けました。朝からお酒を飲んだり、暴言を吐いたり……腫れ物に触るような感じの印象でした。
その過去を思うと少し不安がありましたが、私はいつものように仏前にて衣帯(えたい=衣や袈裟のこと)を整え、香を点しました。そして読経を始めました。すると不思議なことに、目の前がスーッと明るく拡がり、お経がスルスルと口から滑り出る感覚になりました。これを音成仏(おんじょう)とでも呼ぶのでしょうか。なんのストレスもなく、お香の甘い香りが鼻をくすぐり、灯明の明かりは白く見え、時が経つのを忘れるほどの気持ち良いお勤めが出来ました。
後で伺うと「いろいろあったけん、朝だけはキチッと手を合わすことにしたんです。手を合わしていると仏壇の穢れやお供え物の不具が気になって仕方ない。だから毎朝、左右対称にキチンと整えるようにしているんです。特別のことは拝んでいないけど、決まったことを淡々と唱えていると生活が明るくなってきたんよね。」と笑顔で語ってくれました。
もう1つは老いたご主人を看取った奥様に招かれました。「年が行ったからなーんにも出来んけどね……。」と申し訳なさそうにおっしゃる仏前は、小さな空間でしたが完璧に仕上がっていました。そこに先日、お寺から送付した封筒も供えられていました。私が「これはなぜに?」と訊ねますと、奥様は「いま世話人を仰せつかってるでしょ。お寺の行事案内が届いたから主人に報告してね。そうしたら、見やすいように配れる工夫をせい!と言われた気がしたから、それぞれをクリップで止めてね。このあと組内(担当の町内)に配りに行くんです。お寺からの案内は仏様のお声じゃからね。」と合掌して下さいました。そのあとの法事が心地よく修められたことは言うまでもありません。
難しい理屈や厳しい修行だけでない「気持ち」という部分。形だけじゃダメですよね……と口ではわかっていても、真心が形を呼ぶのではないか、と教えられたような気がします。『信は荘厳なり』、そこに供養は行き届くのでしょうね。