法話な日記

Bykozoji

2017/06/14『72兆個の染みわたる』

弘法大師・空海さまがおっしゃるには、私たちの身体は72兆個の蟲(細胞)から出来ています。高野山の修行では以下の偈文を毎食前に唱えます。
 
【蟲食偈】
我身中有八万戸
(わたしの身体の中には、八万の家があり)
一一各有九億蟲
(その一つ一つに九億の細胞がいる )
済彼身命受信施
(今、彼らの活躍を願い、この食事を施しとする)
 我成佛時先度汝
(自身が仏に成るには、まず細胞たちを成仏に導くことである)
 
現代科学では60兆個だといわれる細胞の数ですが、1200年前に空海さまのおっしゃった数のほうが上というは驚きです。このために大自然に御身と投じて、じっくりお時間をかけてご修行なされたのでしょうね。
 
健康とはその72兆個が「善意」をもち、それぞれがそれぞれの役割をストレスなく活動してくれることです。例えるなら、大型船である自身のクルーは72兆個の細胞であり、意識とか自我と呼ばれるものは「船長」でしかありません。その船長がやさぐれたり、自分本位に突っ走ってしまうと、当然、クルーは不満と不調を訴えてきます。
 
だから「死にたい」なんて口にするもんじゃありません。いや、想うことすら72兆個のクルーに悪影響を及ぼします。もっといえばお互いが争うことや、卑下しあることもクルーにとっては辛く悲しいことなのです。
 
ある大病を患われた男性が「死ぬほどの痛みと苦しみに耐えかねて病院のベッドの上で死のうと思って泣いていた。しかし医者や看護師の献身的な治療、親族の懸命な看護、そして放っておいてもヒゲも髪も爪まで伸びる。死のうと思っているのは自我のワガママであって、命は常に生きようとしてるのだと気付いたら元気が湧いてきた」とおっしゃっていましたが、正にその通りだと思います。
 
しっかりとした意識をもって「自虐は最低の行為だ」と肝に銘ずるべきです。日本人が使う「五臓六腑に染みわたる」という表現はまんざらでもなく、72兆個に染みわたらせる意識で生きていきましょう。
Bykozoji

2017/06/09『センスがないわけがない』

今年の1月から月に1度、名古屋に通って「みほとけ画講座」の講師を勤めました。この講座は私の描く「ほほえみほと」の技法を伝授するエキスパートコースです。全24回、約2年間に講義、実践、試練を繰り返す「みほとけ画家」を目指します。
 
その様子は4つに分かれ、「如来クラス」「菩薩クラス」「明部クラス」と「天部クラス」と順に(技術的には)ステップアップし、徐々に俗的なモノも尊く描くようになる珍しい講座です。もちゃん講座の中で真言密教のノウハウを学んで受けるように工夫されています。いわば、絵を方便とした初心行なわれた趣で修了すると雅号(法名)をお授けします。
 
昨日はその「如来クラス」の修了しましたがこれで学び、描いてきたことは集大成として、手本を離れて「清書」することが課題でした。門下生は緊張してもノノビビ傑作を描いててくれました。
 
総評の中で私は3つの極意を話しました。それはこれ以上これの上達を望むなら3の心得です。それは「欲望」と「負け気」、それを「センスを磨く」の3つ。ここでここそれは講座でも伝授なのですからもよくよかった読み返していると、いずれも「仏教らしからぬ」語句ばかりです。これぞ、密教!と面白い展開です。門下生たちも元はキョンとしていました。
 
センスがない……と嘆く人がいます。絵心がない……とぼやく人がいます。でも私は「ない」と言う表現に疑問を感じます。「文字心がない」は誰も言わない。それは字は誰にでも書けると認識があるからです。でも、字も元々は象形、絵から成り立ったものです。
 
「ない」という表現は間違いです。「絵心ない」のはではなく、絵を描き上げる心がない、絵を描こうとする気持ちがない、それだけのことです。ならば、センスはどうでしょう?センスの意味をすししべべみみとと「物事の微妙な感じをさとる心の動き、微妙な感覚」と出てきます。センスがない……なんていう前に磨く意識をもらないだけのこと。自分ではいけないセンスでどんどん輝きたいもの…宝はないのではなく、持ち腐れて磨きが足りない。センははんどん磨きましょう。
Byyomairi

2017/05/31『瞬発力のはなし』

祈願にはさまざまは状況に合わせた方法が存在します。空海さまから伝わるいわゆる『伝・でん』というものです。高野山修行時代にはその方法をたくさん教わります。そのことを「お授け」と云います。お授けにもいろいろな方法があって、熱心に行者は出来るだけ多くの『伝』を授かろうとマジメに修行します。
 
これらを授かるには、それまでの正統な修行経験と師匠のご縁が重要となります。そして容易に他言してはなりません。その部分が密接、秘密(立場に合った伝授)ということで『密教』と呼ばれているのです。
 
さて、このことを自分に置き換えるとそのチャンスは他の行者より多くあったような気がします。長く高野山にいましたし、私の周囲は修行に熱心な諸先輩方が多かったので当然といえば当然のことなんですが。私はあまり器用はほうではありませんので、たくさんの法を授かるとパンクしてしまうタチで若いときはその部分でたいへん苦労しました。同門の仲間はきちんとノートに整理して、次々とお授けを受けていきましたが、私はさっぱりでした。
 
あれから30年経ちました。今でも困ったときに開くノートはありません。授かった法の種類も他と比べたら多くありません。たくさんのチャンスがあったのに……と、ものすごく後悔しています。
 
でも先日のことです。私に「あの法はどう拝めば良いのだろう?」と仲間から相談がありました。私はビックリしました。なぜならあれだけ真面目に学び、資料をまとめ、ノートにまとめていた人からの相談だったからです。コツがつかめない……彼は真剣でした。私は自分が観じたなりのコツを伝えました。すると瞬時に彼の顔は晴れやかになり「ありがとう、助かったわ!そこか、そこだったか……ぜんぜん気付かんかった!」と喜んでくれました。
 
私としてはそんなに大したことではなかったので逆に驚いてしまいました。彼は「俺は学ぶことに終始してメモで満足してきたんだけど、いざ修そうとするとサッパリ出来なくなっていた。お前は授かった(学んだ)ことをすぐに試して、1つのことを徹底的に実践してきたからスッと話せるんだよ。学生時代の優等生なんて経験を重ねたヤツには敵わない……。」とため息をつきました。
 
言われてみれば、そこだけが違う気がします。学ぶことを整理して「いつか使おう」と思う人と、忘れぬうちにどんどん「試してみよう」と思う者の差。素直さと好奇心で、語弊を怖れず言えば「バカになってやってみる」ことは身と心に刻まれます。「いつかやる」という気持ちを捨てて「すぐに」やる。アレンジを加えずひたすら反復する。「わかった」という結果を「出来た」に変える。要は実行力、瞬発力が大事だということです。ぜひ若い人にご指導する立場の方には、この辺りをしっかり説いて差し上げて欲しいと願います。
Bykozoji

2017/02/04『御仏の豆まき』

ちょっとだけ「不思議な話」を綴ります。昨日の節分までの1週間、護摩法でこの1年の「息災延命」を祈りました。いつもよりはすこし強くアクセルを踏んだ感じです。
 
昨日の二十一座目の最終座、すこし面白いことが起きました。護摩には「五穀・ごこく」という供物を淨炎に投げ入れる作法が数回あるのですが、最後の最後に全てを投入して祈願し、次の作法に移った瞬間のことです。
 
バチ!バチ!ポン!ポン!と(なんだか昔話の擬音みたいですねw)窯の中が騒がしくなって、次の瞬間「痛っ!」と手や顔にチクチク痛みが走ったのです。夢中だったのにさすがに我に返り、よく見てみると五穀の中の大豆だけが窯の外、四方八方に飛び出て、その一部が我が身にも当たっていたのです。
 
そのバチ!バチ!ポン!ポン!はしばらく続きました。すべてを修め、座を改めて観察しますとキレイ(?)に大豆だけが散らかっていました。
 
そういえば、昨日は「節分」でした。節分といえば「豆まき」です。その豆は主に大豆が使われます。「魔の芽が出ぬように」と煎ってからまくのです。豆まきの由縁はさまざまありますが、ひょっとしたらこういう神変(じんぺん=念ずることによって起こる目の当たりに出来る結果)がいろんな伝わり方をして今に残っているのかもしれません。もちろん個人的な想像の域を抜け出すことはありませんが、仏さま(ここでは不動明王さま)が魔除けとして、私たちに代わって豆まきをしてくださったのかもなぁ……そう思うとなんだかホッコリした成就感に包まれたのでした。
Bykozoji

2017/02/03『真の行者』

節分に向けての『星供養』が佳境に入ってきました。毎日、いつもより強めにアクセルを踏んで護摩行を勤めています。

昨今、坊さんや寺制度、葬式仏教などをバッシングする流れがありますが、真言密教に関してはあくまでも「葬儀を待つ立場」ではなく、「葬儀がなきよう拝む(祈る)立場」を貫いています。その最たる修行期間が2月の節分を起点とする『星供養』に当たります。

宿命という言葉は一般的にも使われますが、私たちの命は大宇宙と繋がっています。その大宇宙の働きを「仏」と名付けて、命の連鎖が正しく好転し、全てが善くなるように進化することを祈ること……それが真言宗の「拝む」ということです。

星は常に法則にならって動いています。輝くときもあれば陰るときもあります。その星々と私たちのそれぞれの命は関係していて、その最も変化が生ずるこの時期に行者の加持(祈る力と天地万物のおかげを最大限に活用すること)で1年の延命を祈るのです。

豆まきも恵方巻きもそれに付随するアクションであって、その慣例で満足する者はそれで善しですが、根本の原理と功徳を知ったならやはり深き祈りは重要であると気づくことでしょう。

拝まぬ者、祈らぬ者、供養を求めぬ者は「知る、知らない」を別にして、弘法大師・空海さま曰く「痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。 (つうきょうはよわざるをわらい、 こくすいはかくしゃをあざける)」とおっしゃっています。あえて意味は記さずにおきますので、しっかり噛みしめてみてください。

さて、今朝の護摩行でふと「真の行者って?」という投げかけがありました。自問自答か、それとも御仏のお声か……そこはよくわかりませんが、そのことについて考えていると記憶がタイムスリップをして面白いことを思い出しました。

我が師匠、明治生まれの行者の言葉です。「戦時中、たいへんな物資難、食糧難であった。国が勝つことと、その日の空腹を満たすことを求めて日本人はのたうち回っていた。ワシはその状況が一刻もはやく改善されますように……と、行者として本堂で祈り続けた日々だった。」この言葉を聞いた私はまだ学生で「たいへんやったんやなぁ……」という程度の受け止め方をしました。

しかしよくよく噛みしめてみると、そんな折に「本堂で拝む」「(物資難に)供物を捧げて祈る」ということを周囲が許したのであろうか? そんなことをするヒマがあれば芋のひとつも育てよ! の時代だったのではなかろうか?

しばらく経って、そのことを師匠に問いました。すると「日々、拝んでいるからこその信用。信じ用いられることが『信用』。有事に『和尚が拝んでくれているから大丈夫じゃ』と思って頂けることが行者の真価じゃ。拝むしか出来んということは、これなら負けん、任せておけ、と言い切れる立場ってことじゃ。日々が大事よのう」という答えが返ってきました。

祈願でも葬儀でも慌てて、拝もうとするのではなく、日々どんなときも拝んでいるという信用があるからこそ「行者」なのでしょうね。