絶家(ぜっけ)などという言葉を耳にする昨今です。昔からある言葉なのに、今の使い方にはすこし違和感を覚える……お寺が関わる現場にはそういう言葉が増えてきました。家族葬、墓終い、別姓墓など……絶家もその1つだと私は思います。
止むを得ず、跡を継ぐ者がいなくなりその家、または一族が終わってしまう。ということは、その後はその血統を繋ぐことが出来ない。元々はそういった意味だったと思います。でも現代においては「跡を継ぐ(面倒をみる)者がいたとしても、私には関係ない」と言って、先祖の供養を止めてしまうことに使うのだそうです。誠に嘆かわしいことでございます。
人間にはおヘソがあります。それは母から親から、そして先祖からの繋がりの証しです。今ココに自分が在るのは過去の命が在ってこその「存在」です。お位牌やお墓は諸事情で祀ることは出来なくても「絶家します」などという言葉は口が裂けても発するべきことではありません。
先日、とあるご家庭にお参りしました。お爺ちゃんの7回忌でした。長らく空き家だった家をリフォームしてお孫さんが「今後、家徳を守る」ということになりました。そのお孫さんは30才手前の男性で、その家の長女であるお母さんに産まれました。お母さんは旦那さんの家に嫁ぎ、違う名字を名乗りました。その男性もその名字で生きてきました。その家には男の子が2人いましたので、一大決心をしてお母さんの旧姓、すなわちお爺ちゃんの名字を引き継ぐことにしました。
その報告も兼ねた法要でした。私はリフォームされた家の中を案内してもらい、昔の名残とこれからの生活を想像して嬉しい気持ちになりました。衣に着替え、袈裟を着けたとき、亡きお爺さんの笑顔がそのお孫さんの後ろに見えたような気がしました。
読経の前に「名字と名前」はなぜあるのか知っていますか? と彼に問いました。彼はキョトンと「……よくわかっていません」と照れくさそうに答えました。ならばと、私は「難しい言い方はいくらでもできるけどね……」となるべく平易に説くことにしました。
相手は若者ですから自動車に詳しそうでしたので「TOYOTAや日産、HONDAと聞いたらどんなイメージでしょう?」と問いました。すると「信頼のある日本車のイメージ。安全で性能も良くて……」と笑顔で答えてくれました。そして私は「名字って、それと同じだよ。」と続けました。
家の筋というのは一代で築けるものではなく、何代にも渡って善行を重ねて「信頼」を得てきました。善行を重ねるには一人だけの意識では続きません。「〇〇家はかくあるべき」と掲げて一念に築き上げたものなのです。わかりやすく言えば、先に挙げた社名と同じです。その社名(名字)の下で、さまざま車種(個人)が創意工夫を重ねて、万民のお役に立つ進化を続けているのです。[一例ですが]TOYOTAにはカローラという名車がありましたが、その性能と信頼、そして人気があったからこそ、世界中で愛されるプリウスが産まれたのです。
名字に固執して窮屈に生きることは望みませんが、一族一統の証しである「名字」について、少しだけこれからの若い世代にそれぞれの興味が湧く角度から、先人の功績を語ることで「先祖供養」の一助になるような気がします。ご参考までに。