Author Archives: kozoji

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◎第2回こうぞうじ檀家塾『法事入門』

先祖供養でもっとも身近な仏事『法事』について根本から学びます。なぜ法事をするのか? 法事をすればどうなるのか? 法事の準備や飾り方、その心構えは? といったことから「お布施につかう水引の色は?」「どう書いたらいいの?」など一度学んでおけば、たいへん役立つ内容満載です。同時に「み教えと迷信」についても解明しますので、目からウロコの仏教雑学も学べます。この機会にぜひご参加ください。
 
・日 時  平成29年3月18日(土)10:00〜11:30
・場 所  高蔵寺客殿
・資 格  高蔵寺檀家
・会 費  無料(お供えは随意)
・持参品  おかんき本(持っている人のみ)
      筆記用具、数珠
・その他  イス席で学びます
・申込み  高蔵寺(086-465-2744)まで
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2017/02/04『御仏の豆まき』

ちょっとだけ「不思議な話」を綴ります。昨日の節分までの1週間、護摩法でこの1年の「息災延命」を祈りました。いつもよりはすこし強くアクセルを踏んだ感じです。
 
昨日の二十一座目の最終座、すこし面白いことが起きました。護摩には「五穀・ごこく」という供物を淨炎に投げ入れる作法が数回あるのですが、最後の最後に全てを投入して祈願し、次の作法に移った瞬間のことです。
 
バチ!バチ!ポン!ポン!と(なんだか昔話の擬音みたいですねw)窯の中が騒がしくなって、次の瞬間「痛っ!」と手や顔にチクチク痛みが走ったのです。夢中だったのにさすがに我に返り、よく見てみると五穀の中の大豆だけが窯の外、四方八方に飛び出て、その一部が我が身にも当たっていたのです。
 
そのバチ!バチ!ポン!ポン!はしばらく続きました。すべてを修め、座を改めて観察しますとキレイ(?)に大豆だけが散らかっていました。
 
そういえば、昨日は「節分」でした。節分といえば「豆まき」です。その豆は主に大豆が使われます。「魔の芽が出ぬように」と煎ってからまくのです。豆まきの由縁はさまざまありますが、ひょっとしたらこういう神変(じんぺん=念ずることによって起こる目の当たりに出来る結果)がいろんな伝わり方をして今に残っているのかもしれません。もちろん個人的な想像の域を抜け出すことはありませんが、仏さま(ここでは不動明王さま)が魔除けとして、私たちに代わって豆まきをしてくださったのかもなぁ……そう思うとなんだかホッコリした成就感に包まれたのでした。
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2017/02/03『真の行者』

節分に向けての『星供養』が佳境に入ってきました。毎日、いつもより強めにアクセルを踏んで護摩行を勤めています。

昨今、坊さんや寺制度、葬式仏教などをバッシングする流れがありますが、真言密教に関してはあくまでも「葬儀を待つ立場」ではなく、「葬儀がなきよう拝む(祈る)立場」を貫いています。その最たる修行期間が2月の節分を起点とする『星供養』に当たります。

宿命という言葉は一般的にも使われますが、私たちの命は大宇宙と繋がっています。その大宇宙の働きを「仏」と名付けて、命の連鎖が正しく好転し、全てが善くなるように進化することを祈ること……それが真言宗の「拝む」ということです。

星は常に法則にならって動いています。輝くときもあれば陰るときもあります。その星々と私たちのそれぞれの命は関係していて、その最も変化が生ずるこの時期に行者の加持(祈る力と天地万物のおかげを最大限に活用すること)で1年の延命を祈るのです。

豆まきも恵方巻きもそれに付随するアクションであって、その慣例で満足する者はそれで善しですが、根本の原理と功徳を知ったならやはり深き祈りは重要であると気づくことでしょう。

拝まぬ者、祈らぬ者、供養を求めぬ者は「知る、知らない」を別にして、弘法大師・空海さま曰く「痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。 (つうきょうはよわざるをわらい、 こくすいはかくしゃをあざける)」とおっしゃっています。あえて意味は記さずにおきますので、しっかり噛みしめてみてください。

さて、今朝の護摩行でふと「真の行者って?」という投げかけがありました。自問自答か、それとも御仏のお声か……そこはよくわかりませんが、そのことについて考えていると記憶がタイムスリップをして面白いことを思い出しました。

我が師匠、明治生まれの行者の言葉です。「戦時中、たいへんな物資難、食糧難であった。国が勝つことと、その日の空腹を満たすことを求めて日本人はのたうち回っていた。ワシはその状況が一刻もはやく改善されますように……と、行者として本堂で祈り続けた日々だった。」この言葉を聞いた私はまだ学生で「たいへんやったんやなぁ……」という程度の受け止め方をしました。

しかしよくよく噛みしめてみると、そんな折に「本堂で拝む」「(物資難に)供物を捧げて祈る」ということを周囲が許したのであろうか? そんなことをするヒマがあれば芋のひとつも育てよ! の時代だったのではなかろうか?

しばらく経って、そのことを師匠に問いました。すると「日々、拝んでいるからこその信用。信じ用いられることが『信用』。有事に『和尚が拝んでくれているから大丈夫じゃ』と思って頂けることが行者の真価じゃ。拝むしか出来んということは、これなら負けん、任せておけ、と言い切れる立場ってことじゃ。日々が大事よのう」という答えが返ってきました。

祈願でも葬儀でも慌てて、拝もうとするのではなく、日々どんなときも拝んでいるという信用があるからこそ「行者」なのでしょうね。

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お詫びと訂正

先般お配りしました『高蔵寺だより・新年号(125号)』の「吉凶早見表」に誤りがございました。ブルーの部分に誤植がありました。ここにお詫びして訂正いたします。

 

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今年の芸能奉納は『落語』

明日(1/07)の『初薬師』では、芸能奉納として桂米裕さんによる落語をお楽しみいただきます。米朝一門であり、真言僧侶でもある米裕さんの至極の話芸にご期待ください。(*落語のみのご参加はできません。あらかじめご了承ください。)