Author Archives: kozoji

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◎6月7日の縁日は午後(14時)から厳修します。

毎月7日はご本尊・薬師如来さまのご縁日として護摩行を勤めております。今月(6月)は住職の都合により、14時より厳修いたします。お間違えなきようにお願い申し上げます。

6月7日(木)
×10時→○14時

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◎土ほとけ講座in高蔵寺

高蔵寺住職・天野こうゆうによる『土ほとけ講座』です。

土ほとけとは、陶土で簡単に作れる仏さまのことで、当講座では法話を交えながら丁寧にご指導いたします。お子様のご参加も大歓迎です。

世界に一つ、自分だけの愛らしい仏さまを楽しく作りましょう!

・日時 6月3日(日)14:00〜16:00
・会場  高蔵寺客殿(イス席)
・会費  2,000円(材料費込)
・申込 お電話にて(086-465-2744)

※当日は各自、ハンドタオルと雑巾、エプロン、ナイロン袋(もしくはジップロック)をご持参ください。なお、会場は畳のお部屋ですが、イス席にて行います。

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2018/05/15『見よう見まねの遺伝子』

親から子へ様々な「生命」のデータが継承されいることは「遺伝子」という言葉などで、一般の人々にも理解されるようになってきました。難しい話はさておき、日常でも「似てきたなぁ」とか「〇〇がソックリね」というやりとりは耳にしますし、こと法事の席ではそのような会話で微笑ましい場面をよく目にします。
 
法事というのは「亡き人を偲ぶ」行事です。参列者の中には、その人の生前の活躍を知らない人や子孫もいます。でもその人とのご縁があっての今であることは紛れもない事実です。
 
先日の法事である家に招かれた時のことです。亡き祖父を偲ぶ孫たちが「拝んだり、供養したりする以外で私たちに出来ることは何でしょうか?」と質問してきました。私は幸い、故人と親しかったのでいろんなことを拝みながら思い出しました。
 
当寺の花祭り、4月初旬になると必ずたくさんのパンジーを植えたプランターを持ってきてくれました。いつも「みんなの喜ぶ顔を想像して栽培していると作りすぎてしまう……」を笑顔で語ってくれたものです。私はそのことを孫たちに話しました。
 
その締めくくりに「同じ作業を見よう見まねでやってみると、その人の気持ちが蘇ってくるよ。お爺さんが何を想い、何を君たちに願っておられていたのか。季節の中でリズミカルに追体験するのも供養の一つじゃないかなぁ……実はね」と以下のように自分の体験談を法話として語りました。
 
私は近年、父を亡くしました。父はカメラマンで幼い私にも写真撮影についてはたいへん厳しかった。それは弟も同じでそのせいでカメラや写真のことが嫌いになりました。しかし亡くなってからカメラのファインダーを覗くと、私の撮影に対して口うるさく言っていた父の助言が蘇ってきて、それを修正することで「一人前の写真」が撮影できて驚きました。
 
これを単に記憶で片付けることは簡単ですが、そのとき私が感じたことは「自身の内面から蘇る何か」が存在したという感覚でした。それからというもの、出会う全ての人々の接し方が明らかに変わり「将来の糧」を意識するようになりました。
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2018/05/14『クッキーのサイクル』

もうずいぶん前の話になりますが、8才くらいの女の子に「死んだらどうなるの?」と訊かれたことがあります。とっさのことでずいぶん慌てた記憶がありますが、そのとき「死んだ先のことはわからないけど、死んだ人を君がどう考えたら良いのか、その方法はわかるよ。」と答えました。
 
まず「大好きな食べ物は?」と訊いてみました。すると彼女は「〇〇クッキー!」と答えてくれました。次に「そのクッキーのこと考えるとどんな気持ちになる?」と訊きました。すると「美味しいことを思い出して食べたい!ってなる」と答えました。
 
では「クッキーを貰ったらどうする?」と訊きました。「すぐに食べる!」と嬉しそうでした。それから食べていると想像していろんな感想を訊きました。歯ごたえ、香り、甘さ、のどごし……丁寧に答えてくれて「だから大好き!」とまた言いました。
 
次に食べ終わった感想を訊きました。彼女はすこし寂しそうに「無くなっちゃった……また食べたいなぁ」と言いました。
 
食べたいと常に願って、それを手に入れたらワクワクして、それを食べたらやっぱり最高で、食べ終わったらしばらく感動に酔って、もうしばらくしたら少し寂しくなって、でも思い出したらまたニッコリして……また食べたいと願う。
 
クッキーでさえもこのサイクルで私たちは生きています。これを人に置き換えてみてください。会いたいと願って、出会えて、一緒の時間をたくさん共有して、別れた後も充実感に包まれる、しばらくしたら寂しくなって、思い出すたびにホッコリする。
 
その繰り返しで人は営みを続け、いつかは死んでしまいます。死別は悲しいことですが、このように考えてみると「今をどう生きて、あの人とどう接するべきか?」がボンヤリ見えてきませんか?難しい理屈や哲学じゃ、解決できないことも経験を思い起こすとふと気づけることがあるんです。密教ってそういう教えです。
 
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2018/02/04『前の一枚を超える』

この歳(今年で50歳を迎える)になって気づくことがたくさんあり毎日が新鮮でなりません。
 
この節分に向けて今年もたくさんの木札を書きました。もう何十年もやっているいつもの作業です。20歳のころ、高野山で習った書き順は、まず滲みを防止するために薄ら白いチョークで目止めをして、そこに鉛筆で中心線を引く。呼吸を整えてから、先ず先頭の梵字から心を込めて書いていく。そして呼吸を止めずゆったりとした気持ちで一気に残りの文言を書き終え、水引でグッと締めて完成……こんな流れを学びました。
 
今でもこの書き順は馴染んでいます。しかし徐々にチョークも鉛筆線もいらなくなり、どんどんスラスラ書けるようになっていきました。それでも去年の木札をみるとなんとなく納得がいかない。書きためて置いた物はやっぱり気にくわないので新たに申込み分を書く作業が延々続きます。
 
上手に書きたい……この一念のくせに「早く終えたい」という気持ちが併走してきます。そんな時はあえてスローペースでジックリ書いてみます。筆をゆっくり運びすぎると今度は滲みが出てきます。するとまた速度を上げていきます。文字の収めも慣れてくるとクセがキツくなってきます。ハネやはらいは「どや!」みたいな大袈裟な個性が顔を出す。書いた瞬間は快感が込み上げますが、後で見るとゾッとするくらい嫌な主張をしている。リズムと勢い、丁寧さと速度、略字と本字……たった一枚の木札にさまざまテーマが凝縮されています。しかもそれは人手に渡るのですから、すべてが清書なのです。
 
今年、書きながら気づいたこと……それは「前の一枚を超える」という意識です。上手く書くのは当たり前、そのレベルをキープしながら何かが不足している。それはモチベーションだと気づいたのです。例えば100枚をすべて納得のいくパーフェクトな仕上がりにしようするから、気の遠くなるような想いで苦痛と闘いながらチャラチャラと書いてしまう。
 
「千里の道も一歩から」ではありませんが、とにかく前の一枚より上を目指す。技術的な向上が難しいと感じたら、より丁寧に筆を運んでみる。この意識で今年は大きく変わりました。一日に決めた数を書き終えて、最初と最後に一枚を比べてみるとどちらも誤差はなく、現段階で納得のいく仕上がりとなっていました。
 
目指すという感覚も「距離と密度」を極めれば過去の自分を超えられる。それは日常のちょっとした作業の中で見出せる宝石なのだと思います。
 
【ご案内】2月19日(月)に福岡で行われる、第2回風ふく寺子屋『日常生活に役立つ空海さんのおしえ』ではこのような内容をさらにディープに説いていきます。もちろん当寺の縁日(毎月7日と27日)でもしっかりと説いていきますので、ぜひ一度お参りください、