2017/02/03『真の行者』

Bykozoji

2017/02/03『真の行者』

節分に向けての『星供養』が佳境に入ってきました。毎日、いつもより強めにアクセルを踏んで護摩行を勤めています。

昨今、坊さんや寺制度、葬式仏教などをバッシングする流れがありますが、真言密教に関してはあくまでも「葬儀を待つ立場」ではなく、「葬儀がなきよう拝む(祈る)立場」を貫いています。その最たる修行期間が2月の節分を起点とする『星供養』に当たります。

宿命という言葉は一般的にも使われますが、私たちの命は大宇宙と繋がっています。その大宇宙の働きを「仏」と名付けて、命の連鎖が正しく好転し、全てが善くなるように進化することを祈ること……それが真言宗の「拝む」ということです。

星は常に法則にならって動いています。輝くときもあれば陰るときもあります。その星々と私たちのそれぞれの命は関係していて、その最も変化が生ずるこの時期に行者の加持(祈る力と天地万物のおかげを最大限に活用すること)で1年の延命を祈るのです。

豆まきも恵方巻きもそれに付随するアクションであって、その慣例で満足する者はそれで善しですが、根本の原理と功徳を知ったならやはり深き祈りは重要であると気づくことでしょう。

拝まぬ者、祈らぬ者、供養を求めぬ者は「知る、知らない」を別にして、弘法大師・空海さま曰く「痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲る。 (つうきょうはよわざるをわらい、 こくすいはかくしゃをあざける)」とおっしゃっています。あえて意味は記さずにおきますので、しっかり噛みしめてみてください。

さて、今朝の護摩行でふと「真の行者って?」という投げかけがありました。自問自答か、それとも御仏のお声か……そこはよくわかりませんが、そのことについて考えていると記憶がタイムスリップをして面白いことを思い出しました。

我が師匠、明治生まれの行者の言葉です。「戦時中、たいへんな物資難、食糧難であった。国が勝つことと、その日の空腹を満たすことを求めて日本人はのたうち回っていた。ワシはその状況が一刻もはやく改善されますように……と、行者として本堂で祈り続けた日々だった。」この言葉を聞いた私はまだ学生で「たいへんやったんやなぁ……」という程度の受け止め方をしました。

しかしよくよく噛みしめてみると、そんな折に「本堂で拝む」「(物資難に)供物を捧げて祈る」ということを周囲が許したのであろうか? そんなことをするヒマがあれば芋のひとつも育てよ! の時代だったのではなかろうか?

しばらく経って、そのことを師匠に問いました。すると「日々、拝んでいるからこその信用。信じ用いられることが『信用』。有事に『和尚が拝んでくれているから大丈夫じゃ』と思って頂けることが行者の真価じゃ。拝むしか出来んということは、これなら負けん、任せておけ、と言い切れる立場ってことじゃ。日々が大事よのう」という答えが返ってきました。

祈願でも葬儀でも慌てて、拝もうとするのではなく、日々どんなときも拝んでいるという信用があるからこそ「行者」なのでしょうね。